2010年6月9日水曜日

アイスクライマーについてでも語ろうか

アイスクライマーについてでも語ろうか。アイスクライマー1985年に任天堂から発売されたアクションゲームだ。ファミコンのゲームながらリメイクされたりしたので知名度は高いのではないだろうか。

ゲームの内容としてはフードを被り、大きな木槌を持った主人公を操作して、上へ上へと登っていくゲームである。妨害する敵キャラクターも4種類くらいある。よくよく考えるとハンマーで山をのぼるという発想には驚きのゲームだ。

僕が子供の頃には気付かなかったが、途中のボーナスステージでとるアイテムがナスなのであるが、これはボーナスとかけたものらしい。こういった遊び心も任天堂の雰囲気が出ていたと思う。

さて、このアイスクライマー最大の要素として二人同時プレイができることがある。左右に別れたスタート位置からはじまり、上に登っていく。この際に二人で協力しながら登るか、それとも邪魔をしながら登るかでゲームの味わいが大きく変わってくる。これは83年発売のマリオブラザーズからの流れと同じで、当時のマリオブラザーズに「協力するか、それとも裏切るか」などと書かれていたのと同じである。協力するか、それとも裏切るかというテーマは奥深いテーマである。その判断基準はプレーヤーに委ねられいる為、プレーヤーの状況によって変化する。敢えてのクリエーターがコントロールできない部分を残すことで、ゲームに自由度を与えているのである。

ただ、プレーヤーに委ねるといってもゲームシステムレベルで「マリオブラザーズ」と「アイスクライマー」はかなり近い。かなり近いにも関わらず、なぜ、僕らは「アイスクライマー」を鮮明に覚えているのだろうか。色々と考えてみた。僕はそれは単純に登るということへの欲求と恐怖なのだという答えを見つけた。まさにそれは現実社会での登山家と同じである。

どういう言う事かといえば、マリオブラザーズは地続きである。しかしながらアイスクライマーはどんどん登っていくのである。それゆえに穴から足を踏み外すと死んでしまう。敵に殺されるのではなく、転落死という事実の身近な恐怖感がリアリティを生むのだと思う。子供の頃(大人もそうでありたいと願うが)、敵と呼ばれる存在は身近にいることは稀だったと思う。一方、転落の恐怖は子供にとって身近だ。塀の上から、アスレチックジムの上から、子供は飛び降りる。そして、高さと言うものの恐怖を体感する。あの股間のあたりがむずがゆくなる恐怖を感じる。

アイスクライマーをプレイしていて、穴に落ちそうなとき、条件反射的にあの感覚が蘇るのである。アイスクライマーの時点で、こちら側の感覚を呼び覚ますリアリティを持っていたということに僕は驚かざるをえない。リアリティの見せ方はデータのボリュームだけでないことを痛感させる。

大人になった今、アイスクライマーを思い出す。協力するときは、いつも事前に確認をした。裏切るときは、確認をしないで始め、協力する風を装いながら裏切る。ああ、僕らの根本的な行動はあまり変わっていない。そう思った。

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