ドラゴンクエスト3について語ろうと思う。ドラゴンクエストを語るのは勇気がいる。ファイナルファンタジーも同じだ。いつしかこの二つはゲームの中でも神聖な立場を手に入れた。
僕はそれを避けることもできたけど、やはり語りたいと思う。はじめはドラゴンクエスト3から。ドラゴンクエストシリーズは1986年に生まれ、ドラゴンクエスト3は1988年に生まれる。堀井雄二の脚本・ゲームデザイン、鳥山明のキャラクターデザイン、すぎやまこういちの音楽。発売日には店の前に数キロメートルの行列ができるなどの社会現象を巻き起こした。
1988年の2月10日の水曜日にこのゲームは発売された。平日に発売されたため、学校を休んで買いに行く子どもが現れ、400人弱が補導された。まさしくこのゲームは社会現象となった。僕の場合は祖母に買いに行ってもらい、学校から帰るとすぐに電源を入れた。そして始まるあのテーマソング。そして主人公は母親に起こされる子供。今思えば16歳にもなって母親に起こされるなよ、と思うが、一瞬で世界に引き込まれる。そして使命を与えられ、ルイーダの酒場で仲間を集める。大人の世界の変なリアリティが現れる。
今でも無意識的に考える、遊び人は将来賢者になるって本当だよなって。本当はそれは逆でドラゴンクエストが与えた影響のような気もする。要は僕の思考はもはやゲームをベースに成り立ってしまっているのかも知れない。決してそれは悪いことだとは思わないが。
そして不死鳥ラーミヤの復活、一番かっこいいラスボス、ゾーマの存在。あまりにも普通に、あまりにも要素が盛り込まれすぎていて、一人ひとりのキャラクターのストリーが追えない。世界は広すぎて、大きな話が進みすぎていて、結局やることはレベル上げになる。ここにも大人の世界の変なリアリティが現れる。
ドラゴンクエストが持つ魅力は、大人の世界が持つ変なリアリティだと思う。変なリアリティというのは現実にはそうではないんだが、大人の世界ってこんなもんだろうと考える概念上の大人の世界が、ファンタジーの世界に存在している。この要素がファンタジーと相まって、現実と理想の世界の葛藤を生んでいる気がする。
そして最後の最大のリアリティは、プレーヤー一人ひとりが運命に選ばれた勇者であるということ。またそれぞれの使命を担っているということ。人生においてこれ以上のリアリティはないんじゃないだろうか。
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