ロックマン2 Dr.ワイリーの謎について語ろう。ロックマン2は1988年にカプコンから発売されたアクションゲームである。横スクロールアクションゲームの礎を築いたゲームは1985年に発売されたスーパーマリオであるがロックマンというゲームはそれを大きく塗り替えた。
大きな相違点は相手のボスを倒すとそのキャラクターの能力を自分のものにすることができるという点である。そしてそれぞれのボスキャラクターにには弱点があり、ボスキャラクターを倒す順番に戦略が生まれる。ゲームシステムをデザインするときに、常に根幹にあるべき部分としてはプレーヤーにたいするポジティブなフィードバックをどうつくるかという点である。
先に上げたスーパーマリオで言えば、何ステージまでクリアできたかという点である。ドラゴンクエストであればレベルアップによりキャラクターが強くなるという点である。 ドラクエ2の発売は1986年であり、初代ロックマンは1987年に発売されている。そういった意味でキャラクターが強くなるというゲームの基板は既に出来ていた。RPGとアクションゲームをどのように組み合わせるか、という難点を上手くクリアしたゲームがロックマンである。
単純にキャラクターのHPが増加するのではなく、キャラクターに新能力を身につけ指せるという解決策は見事としか言いようがない。無限に強くなる仕組みではないのでゲームバランスを壊さず、あくまで戦略の部分はプレーヤーに委ねている。相手キャラクターの解決策を試行錯誤しながらクリアしていくのである。その試行錯誤に面白みがあるのである。一方で難易度調整が難しくなる。Eカンの登場や2コンを使った裏技という解決策が正しかったのかは分からないがギリギリのラインでクリアしていると個人的には感じている。
ただし、現代であれば攻略サイトがすぐ作られてしまう。考えながら答えをトライアンドエラーで探す事ができない。こうした時代においてプレーヤーにどのように余白を提供するかは未だに大きな課題であるといえる。時間効率や最強を求める因果からどうやって現代ゲームは逃れる事ができるのだろうか。僕個人としてはゲームのゴールは人生のゴールと同じく、正しい正解が無いということを再認識する必要があるのではないかと思う。
少し話がそれたが、ロックマン2は1980年代のおわりに登場した革命的ゲームのひとつであることは間違いない。そしてそれは常にプレーヤーの余白を考えていた。ロックマン2からボスキャラクターの一般募集が行われたのも偶然ではない。(リアルタイムの人たちはこぞって応募した記憶がよみがえるかも知れない) プレーヤーの余白を最大限に活かすゲーム設計をアクションゲームで行うのは至難の業だ。ロックマンは爽快感や自己満足を無限に与えるだけがゲームデザインではないということを痛感させてくれるゲームだった。
2010年7月8日木曜日
スーパーマリオブラザーズについて語ろう
スーパーマリオブラザーズについて語ろう。スーパーマリオというばご存知、任天堂から発売されたアクションゲームだ。発売は1985年。任天堂の宮本茂氏の最高傑作の一つである。このゲーム敵を踏んづけて倒すという単純ゲームだが、数多くの微調整がなされている。
まずアイテム。きのこを食べて強くなるというのも、些かサイケデリックな気もしないでもないがきのこがニョキニョキ生えてくる様子は、アイテムが出現した喜びを増強させる。ちなみに僕はずっとクリボーもきのこだと思っていたが、クリボーは栗らしい。次にスターやファイヤーフラワーなどの強化アイテム。これらの強化は単純に強くなるのではなく、ゲームをサポートする為に作られた。これがもしも、RPGのようにどんどん強くなる性質のものだったらプレーヤーは自身のスキルの挑戦をしなかったのではないか。後述しようと思うが、自身のスキルへの挑戦ということが、このゲームの肝だと思う。いずれにせよ各種登場するアイテムはゲームの難易度を絶妙にコントロールしているし、その気になればアイテムを使用しないでもクリアできるように設定されている。
次に無限アップである。本来はバグであるが、段差等でノコノコを踏み続けることで無限に機数を増やすことができる。バグであるからして、仕様という言葉は避けたいところではあるが、この無限アップがあったおかげで僕はスーパーマリオをクリアすることができた。コンティニュー機能がない本作では、無限アップをしてから各ステージの難関に挑戦することができた。そしてあくまで、増えるのが機数だというところが大きい。いくら機数が増えてもステージクリアに必要な自身のスキルは変わらないのだ。
あくまで自身のスキルに挑戦するゲームとしてあり続けるスーパーマリオブラザーズは多くの人間を虜にした。僕が小学生の時、一人で祖父が練習していたの覚えている。そもそも祖父は孫の喜ぶ顔がみたくてプレイしてということを後々になって知るわけだが。いずれにせよ、幅広い年齢層に遊んでもらえるゲームを任天堂は生み出した。そしてその遺伝子は(宮本遺伝子と言ってもいいだろう)受け継げれている。任天堂は20年経った今でも、皆に遊んでもらえるゲームを作ろうとしている。ゲームを通じたコミュニケーションをデザインするその思想は今でも変わらない。
スーパーマリオブラザーズについては、例えばマリオのヒゲは右左が判断しやすいようにつけられたとか、画像データ数を減らすために雲と草の画像を使いまわしているだとか、ジャンプボタンを押し続けるとジャンプが伸びるように設定されているとか、細かい設定や調整は挙げればキリがない。それほどまでに作りこまれたゲームなのだが、それをすべてあげるのは無粋だろう。それらは、ゲームを通じたコミュニケーションを形成する一部なのだから。
まずアイテム。きのこを食べて強くなるというのも、些かサイケデリックな気もしないでもないがきのこがニョキニョキ生えてくる様子は、アイテムが出現した喜びを増強させる。ちなみに僕はずっとクリボーもきのこだと思っていたが、クリボーは栗らしい。次にスターやファイヤーフラワーなどの強化アイテム。これらの強化は単純に強くなるのではなく、ゲームをサポートする為に作られた。これがもしも、RPGのようにどんどん強くなる性質のものだったらプレーヤーは自身のスキルの挑戦をしなかったのではないか。後述しようと思うが、自身のスキルへの挑戦ということが、このゲームの肝だと思う。いずれにせよ各種登場するアイテムはゲームの難易度を絶妙にコントロールしているし、その気になればアイテムを使用しないでもクリアできるように設定されている。
次に無限アップである。本来はバグであるが、段差等でノコノコを踏み続けることで無限に機数を増やすことができる。バグであるからして、仕様という言葉は避けたいところではあるが、この無限アップがあったおかげで僕はスーパーマリオをクリアすることができた。コンティニュー機能がない本作では、無限アップをしてから各ステージの難関に挑戦することができた。そしてあくまで、増えるのが機数だというところが大きい。いくら機数が増えてもステージクリアに必要な自身のスキルは変わらないのだ。
あくまで自身のスキルに挑戦するゲームとしてあり続けるスーパーマリオブラザーズは多くの人間を虜にした。僕が小学生の時、一人で祖父が練習していたの覚えている。そもそも祖父は孫の喜ぶ顔がみたくてプレイしてということを後々になって知るわけだが。いずれにせよ、幅広い年齢層に遊んでもらえるゲームを任天堂は生み出した。そしてその遺伝子は(宮本遺伝子と言ってもいいだろう)受け継げれている。任天堂は20年経った今でも、皆に遊んでもらえるゲームを作ろうとしている。ゲームを通じたコミュニケーションをデザインするその思想は今でも変わらない。
スーパーマリオブラザーズについては、例えばマリオのヒゲは右左が判断しやすいようにつけられたとか、画像データ数を減らすために雲と草の画像を使いまわしているだとか、ジャンプボタンを押し続けるとジャンプが伸びるように設定されているとか、細かい設定や調整は挙げればキリがない。それほどまでに作りこまれたゲームなのだが、それをすべてあげるのは無粋だろう。それらは、ゲームを通じたコミュニケーションを形成する一部なのだから。
2010年6月22日火曜日
くにおくんの時代劇だよ全員集合について語ろうと思う
くにおくんの時代劇だよ全員集合について語ろうと思う。くにおくんの時代劇だよ全員集合は1991年にテクノスジャパンより発売されたアクションゲームだ。くにおくんシリーズはドッチボールをはじめ各種リリースされているが時代劇だよ全員集合は中でも完成度が高い。
テクノスジャパンはこのくにおくんシリーズに頼りすぎたのか(ダブルドラゴンシリーズも面白いのだが)1995年に倒産した。
テクノスジャパンはいわゆるシリーズものではあるのだが、くにおくんというキャラクターをベースに新しいゲームを生み出していた。 いわばスーパーマリオを同じだ。マリオは生き続け、くにおくんは消えて行くことになったことについては、感慨深いものがある。
いずれにせよくにおくんの時代劇だよ全員集合はくにおくんシリーズの中でも最高傑作だ。二人協力バトルもできるし、殴り合うこともできる。ここらへんはファイナルファイトのゲームシステムと同じだ。ただ(熱血硬派シリーズはおいておいたとしても)くにおくんシリーズの殴り合いは、いわばじゃれ合いのような雰囲気を感じさせる。それは、二頭身のキャラクターによるものなのか、アクションによるもののかだろうか。恐らくそれは、ゲーム全体がじゃれ合うように殴り合うことをを中心に作られていたからだ。
殴り合うという行為はまさに暴力的なもので褒められたもので無いことは十分承知の上でだが、そこには魅力的な要素がある。暴力による魅力ではなく、いたずらゴコロにに殴るのである。もしそれが全て否定されるのであれば、漫才におけるツッコミも否定されるべきである。そんなことは容認できない。僕らは、コミュニケーションまたはスキンシップの一部として殴り合うことを容認している。 もちろん痛いのは嫌だが、ゲームなら痛くはない。この線引きがこのゲームの肝だと思う。
また時代劇だよ全員集合には多くの必殺技やキャラクター、アイテムが存在する。しかもその全てがバカバカしい。人間ドリルだとか、山田スペシャルだとか。ただ僕らはその舞台に上がったのだ。舞台に上がったのであればバカバカしいことを大真面目にやるから面白い。そしてそれは漫才やコントと同じだ。漫才師が照れながらボケたってちっとも面白くはない。大真面目にボケるツッコムから面白いのだ。僕はこのドリフト同じタイトルをつけた作品がただ単に語呂がいいからでは無いと信じている。この時代劇だよ全員集合は僕らをその舞台に上げるゲームだったんだと思う。
テクノスジャパンはこのくにおくんシリーズに頼りすぎたのか(ダブルドラゴンシリーズも面白いのだが)1995年に倒産した。
テクノスジャパンはいわゆるシリーズものではあるのだが、くにおくんというキャラクターをベースに新しいゲームを生み出していた。 いわばスーパーマリオを同じだ。マリオは生き続け、くにおくんは消えて行くことになったことについては、感慨深いものがある。
いずれにせよくにおくんの時代劇だよ全員集合はくにおくんシリーズの中でも最高傑作だ。二人協力バトルもできるし、殴り合うこともできる。ここらへんはファイナルファイトのゲームシステムと同じだ。ただ(熱血硬派シリーズはおいておいたとしても)くにおくんシリーズの殴り合いは、いわばじゃれ合いのような雰囲気を感じさせる。それは、二頭身のキャラクターによるものなのか、アクションによるもののかだろうか。恐らくそれは、ゲーム全体がじゃれ合うように殴り合うことをを中心に作られていたからだ。
殴り合うという行為はまさに暴力的なもので褒められたもので無いことは十分承知の上でだが、そこには魅力的な要素がある。暴力による魅力ではなく、いたずらゴコロにに殴るのである。もしそれが全て否定されるのであれば、漫才におけるツッコミも否定されるべきである。そんなことは容認できない。僕らは、コミュニケーションまたはスキンシップの一部として殴り合うことを容認している。 もちろん痛いのは嫌だが、ゲームなら痛くはない。この線引きがこのゲームの肝だと思う。
また時代劇だよ全員集合には多くの必殺技やキャラクター、アイテムが存在する。しかもその全てがバカバカしい。人間ドリルだとか、山田スペシャルだとか。ただ僕らはその舞台に上がったのだ。舞台に上がったのであればバカバカしいことを大真面目にやるから面白い。そしてそれは漫才やコントと同じだ。漫才師が照れながらボケたってちっとも面白くはない。大真面目にボケるツッコムから面白いのだ。僕はこのドリフト同じタイトルをつけた作品がただ単に語呂がいいからでは無いと信じている。この時代劇だよ全員集合は僕らをその舞台に上げるゲームだったんだと思う。
2010年6月15日火曜日
ファイナルファイトについて語ろうと思う。
ファイナルファイトについて語ろうと思う。ファイナルファイトは1989年にアーケードゲームとして登場した。スーファミに移植されるのは翌年のことだった。
ファイナルファイトはベルトスクロールアクションゲームとして登場するわけだが、そこにカプコンならではの要素が組み込まれた。それはストリートファイターで培われた格闘ゲームとしての要素だった。それがゲームに大きな深みを与えると事となった。コンボや投げなどのアクションを加えることによって、敵を殴り倒すと言う爽快感の次元を更に高めた。
またケンカの達人コーディー、忍者ガイ、強き市長マイク・ハガーという3人のキャラクターも特徴的だった。スーファミ移植版ではガイは削られてしまうわけだが。 またコーディに関してはストゼロ3にて衝撃的な再登場をするわけだが。いずれにせよ、この3人のキャラクターはよくよく考えると、敵キャラに負けず劣らずの暴れん坊だ。だがそんな事はどうでもいい、やるかられるかの状況ではやるしか無いのだ。アーケードでコインを入れた瞬間からそれは始まる。無理矢理に世界に引き込まれる。だから人はアーケードに見せられアーケードに出向く。
またこのゲームには重要な技、千本パンチという技がある。ちなみにハガーは使えない。千本パンチとは従来バグの要素であったが、面白いと言うことで使用が残された。具体的な方法とはパンチを一発相手に向けて打ち、相手がひるんでいるうちに後ろ向けてパンチを一発すかす、すかさずまた相手に向かってパンチを打つ。こうすることによって、初段の素早いパンチを連続で相手に打ち込むことができる。比較的難易度の高いこのゲームでワンコインクリアを果たすのにはなくてはならない技となった。そして圧倒的な攻撃力とキャラクターで魅力のあるハガーとコーディー、ガイのキャラ魅力バランスを保つこととなる。
特にアーケードで二人協力プレイをするときにふたりとも千本パンチが使えるし、バランスを取ってハガーを入れてもいいと言うバランスの取り方もできる。要は一人のキャラでやりこみプレイもできるし、いろんなキャラクターでの楽しみ方を味わうこともできる。ただシンプルな殴りゲーにも関わらず。
この絶妙なミックス具合が日本的なアメリカのイメージを作り上げ、その世界観に引き込まれる。その世界自体何なのかと問われれば、実際には日本のイメージなので空想の産物でしか無い。この奇妙なバランス感覚がゲーム全体を通して爽快感を与えていた。僕らはなぜゲームをするのだろうか。ファイナルファイトは異なる世界に引き込んでくれるゲームだった。
ファイナルファイトはベルトスクロールアクションゲームとして登場するわけだが、そこにカプコンならではの要素が組み込まれた。それはストリートファイターで培われた格闘ゲームとしての要素だった。それがゲームに大きな深みを与えると事となった。コンボや投げなどのアクションを加えることによって、敵を殴り倒すと言う爽快感の次元を更に高めた。
またケンカの達人コーディー、忍者ガイ、強き市長マイク・ハガーという3人のキャラクターも特徴的だった。スーファミ移植版ではガイは削られてしまうわけだが。 またコーディに関してはストゼロ3にて衝撃的な再登場をするわけだが。いずれにせよ、この3人のキャラクターはよくよく考えると、敵キャラに負けず劣らずの暴れん坊だ。だがそんな事はどうでもいい、やるかられるかの状況ではやるしか無いのだ。アーケードでコインを入れた瞬間からそれは始まる。無理矢理に世界に引き込まれる。だから人はアーケードに見せられアーケードに出向く。
またこのゲームには重要な技、千本パンチという技がある。ちなみにハガーは使えない。千本パンチとは従来バグの要素であったが、面白いと言うことで使用が残された。具体的な方法とはパンチを一発相手に向けて打ち、相手がひるんでいるうちに後ろ向けてパンチを一発すかす、すかさずまた相手に向かってパンチを打つ。こうすることによって、初段の素早いパンチを連続で相手に打ち込むことができる。比較的難易度の高いこのゲームでワンコインクリアを果たすのにはなくてはならない技となった。そして圧倒的な攻撃力とキャラクターで魅力のあるハガーとコーディー、ガイのキャラ魅力バランスを保つこととなる。
特にアーケードで二人協力プレイをするときにふたりとも千本パンチが使えるし、バランスを取ってハガーを入れてもいいと言うバランスの取り方もできる。要は一人のキャラでやりこみプレイもできるし、いろんなキャラクターでの楽しみ方を味わうこともできる。ただシンプルな殴りゲーにも関わらず。
この絶妙なミックス具合が日本的なアメリカのイメージを作り上げ、その世界観に引き込まれる。その世界自体何なのかと問われれば、実際には日本のイメージなので空想の産物でしか無い。この奇妙なバランス感覚がゲーム全体を通して爽快感を与えていた。僕らはなぜゲームをするのだろうか。ファイナルファイトは異なる世界に引き込んでくれるゲームだった。
2010年6月9日水曜日
アイスクライマーについてでも語ろうか
アイスクライマーについてでも語ろうか。アイスクライマー1985年に任天堂から発売されたアクションゲームだ。ファミコンのゲームながらリメイクされたりしたので知名度は高いのではないだろうか。
ゲームの内容としてはフードを被り、大きな木槌を持った主人公を操作して、上へ上へと登っていくゲームである。妨害する敵キャラクターも4種類くらいある。よくよく考えるとハンマーで山をのぼるという発想には驚きのゲームだ。
僕が子供の頃には気付かなかったが、途中のボーナスステージでとるアイテムがナスなのであるが、これはボーナスとかけたものらしい。こういった遊び心も任天堂の雰囲気が出ていたと思う。
さて、このアイスクライマー最大の要素として二人同時プレイができることがある。左右に別れたスタート位置からはじまり、上に登っていく。この際に二人で協力しながら登るか、それとも邪魔をしながら登るかでゲームの味わいが大きく変わってくる。これは83年発売のマリオブラザーズからの流れと同じで、当時のマリオブラザーズに「協力するか、それとも裏切るか」などと書かれていたのと同じである。協力するか、それとも裏切るかというテーマは奥深いテーマである。その判断基準はプレーヤーに委ねられいる為、プレーヤーの状況によって変化する。敢えてのクリエーターがコントロールできない部分を残すことで、ゲームに自由度を与えているのである。
ただ、プレーヤーに委ねるといってもゲームシステムレベルで「マリオブラザーズ」と「アイスクライマー」はかなり近い。かなり近いにも関わらず、なぜ、僕らは「アイスクライマー」を鮮明に覚えているのだろうか。色々と考えてみた。僕はそれは単純に登るということへの欲求と恐怖なのだという答えを見つけた。まさにそれは現実社会での登山家と同じである。
どういう言う事かといえば、マリオブラザーズは地続きである。しかしながらアイスクライマーはどんどん登っていくのである。それゆえに穴から足を踏み外すと死んでしまう。敵に殺されるのではなく、転落死という事実の身近な恐怖感がリアリティを生むのだと思う。子供の頃(大人もそうでありたいと願うが)、敵と呼ばれる存在は身近にいることは稀だったと思う。一方、転落の恐怖は子供にとって身近だ。塀の上から、アスレチックジムの上から、子供は飛び降りる。そして、高さと言うものの恐怖を体感する。あの股間のあたりがむずがゆくなる恐怖を感じる。
アイスクライマーをプレイしていて、穴に落ちそうなとき、条件反射的にあの感覚が蘇るのである。アイスクライマーの時点で、こちら側の感覚を呼び覚ますリアリティを持っていたということに僕は驚かざるをえない。リアリティの見せ方はデータのボリュームだけでないことを痛感させる。
大人になった今、アイスクライマーを思い出す。協力するときは、いつも事前に確認をした。裏切るときは、確認をしないで始め、協力する風を装いながら裏切る。ああ、僕らの根本的な行動はあまり変わっていない。そう思った。
ゲームの内容としてはフードを被り、大きな木槌を持った主人公を操作して、上へ上へと登っていくゲームである。妨害する敵キャラクターも4種類くらいある。よくよく考えるとハンマーで山をのぼるという発想には驚きのゲームだ。
僕が子供の頃には気付かなかったが、途中のボーナスステージでとるアイテムがナスなのであるが、これはボーナスとかけたものらしい。こういった遊び心も任天堂の雰囲気が出ていたと思う。
さて、このアイスクライマー最大の要素として二人同時プレイができることがある。左右に別れたスタート位置からはじまり、上に登っていく。この際に二人で協力しながら登るか、それとも邪魔をしながら登るかでゲームの味わいが大きく変わってくる。これは83年発売のマリオブラザーズからの流れと同じで、当時のマリオブラザーズに「協力するか、それとも裏切るか」などと書かれていたのと同じである。協力するか、それとも裏切るかというテーマは奥深いテーマである。その判断基準はプレーヤーに委ねられいる為、プレーヤーの状況によって変化する。敢えてのクリエーターがコントロールできない部分を残すことで、ゲームに自由度を与えているのである。
ただ、プレーヤーに委ねるといってもゲームシステムレベルで「マリオブラザーズ」と「アイスクライマー」はかなり近い。かなり近いにも関わらず、なぜ、僕らは「アイスクライマー」を鮮明に覚えているのだろうか。色々と考えてみた。僕はそれは単純に登るということへの欲求と恐怖なのだという答えを見つけた。まさにそれは現実社会での登山家と同じである。
どういう言う事かといえば、マリオブラザーズは地続きである。しかしながらアイスクライマーはどんどん登っていくのである。それゆえに穴から足を踏み外すと死んでしまう。敵に殺されるのではなく、転落死という事実の身近な恐怖感がリアリティを生むのだと思う。子供の頃(大人もそうでありたいと願うが)、敵と呼ばれる存在は身近にいることは稀だったと思う。一方、転落の恐怖は子供にとって身近だ。塀の上から、アスレチックジムの上から、子供は飛び降りる。そして、高さと言うものの恐怖を体感する。あの股間のあたりがむずがゆくなる恐怖を感じる。
アイスクライマーをプレイしていて、穴に落ちそうなとき、条件反射的にあの感覚が蘇るのである。アイスクライマーの時点で、こちら側の感覚を呼び覚ますリアリティを持っていたということに僕は驚かざるをえない。リアリティの見せ方はデータのボリュームだけでないことを痛感させる。
大人になった今、アイスクライマーを思い出す。協力するときは、いつも事前に確認をした。裏切るときは、確認をしないで始め、協力する風を装いながら裏切る。ああ、僕らの根本的な行動はあまり変わっていない。そう思った。
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