2010年7月26日月曜日

サムライスピリッツについて語ろう。

サムライスピリッツについて語ろう。サムライスピリッツは1993年にSNKから発表された格闘ゲームである。格ゲーの歴史で言えば1991年にスト2餓狼伝説、1992年に龍虎の拳が出ており、次の作品である。

サムライスピリッツは正直いってキャラクターバランスが作りこまれたゲームではない。何にもまして強攻撃の威力の高さが尋常ではない。「いざ尋常に勝負」 との掛け声でゲームがスタートするのだが怒りゲージがMAXならば3〜4撃食らうと死んでしまう。いったい何なんだろう。確かに怒りゲージは新しかったし、今のスト4のリベンジゲージなどでも踏襲されている。またキャラクターが明確に真っ二つになるアニメーションは保護者は目を覆いたくなるようなシロモノだろう。

だがしかし、なぜこれまでにこのシリーズが愛され、続編がどんどん出されたのだろう。なんとタカラからゲームボーイ版のサムライスピリッツ(1994年)も出されているのだ。これはこれで結構面白かったのだ。というよりかなりゲームボーイにあったゲームシステムだった。それは複雑な操作が無いという点と、強攻撃がAB同時押しというダイナミックな操作が要求されている点だ。恐らくカプコンでの6ボタンシステム対SNKの4ボタンシステムの葛藤の中で生まれた苦肉の策だったのだろうが、ボタン2つを同時押しするとうダイナミックな操作がダイナミックな攻撃力になるという操作感は上々だ。

タイミングを見て大攻撃を当てていくこのゲームは子供でも遊べるし、親が望まない鴨知れないがグロテスクな描写は子供受けしやすい。もちろん従来のような連続技や連携などはあるが、それは二の次のシステムだということがわかる。そしてその結果、どんなキャラクターを使ってもそこそこ遊べる。対CPU戦においてはプレーヤーは色々なキャラクターを操作することで、やりこみの要素となったのかも知れない。いずれにせよ、思い切った切り捨ては武器にもなる。もちろん思い切った切り捨てによって浮かばれなくなったゲームも多数存在するのだが。。。

ただただ、なによりもサムスピの魅力は侍だということに尽きるだろう。 キャラクターや時代設定の勝利だ。(そういえば一時期ロボット格闘ゲームもあったが続編はなかった、ただバーチャロンは面白い)サムスピシリーズは続編が出るたびに、大きくゲーム時ステムが変更されているだが、サムスピのイメージが維持されている理由は侍という要素に尽きる。侍でスカッとした生き方がしたいのだ。だからシステムが改変されてもストレスレスな操作感は維持され、日本的な侍や忍者が追加されるのだ。僕らはチャンバラが好きなのだ。大河ドラマが好きなのだ。そして恐らくこれはずっと続いていくのだろう。

2010年7月20日火曜日

ロックマン2 Dr.ワイリーの謎について語ろう

ロックマン2 Dr.ワイリーの謎について語ろう。ロックマン2は1988年にカプコンから発売されたアクションゲームである。横スクロールアクションゲームの礎を築いたゲームは1985年に発売されたスーパーマリオであるがロックマンというゲームはそれを大きく塗り替えた。

大きな相違点は相手のボスを倒すとそのキャラクターの能力を自分のものにすることができるという点である。そしてそれぞれのボスキャラクターにには弱点があり、ボスキャラクターを倒す順番に戦略が生まれる。ゲームシステムをデザインするときに、常に根幹にあるべき部分としてはプレーヤーにたいするポジティブなフィードバックをどうつくるかという点である。

先に上げたスーパーマリオで言えば、何ステージまでクリアできたかという点である。ドラゴンクエストであればレベルアップによりキャラクターが強くなるという点である。 ドラクエ2の発売は1986年であり、初代ロックマンは1987年に発売されている。そういった意味でキャラクターが強くなるというゲームの基板は既に出来ていた。RPGとアクションゲームをどのように組み合わせるか、という難点を上手くクリアしたゲームがロックマンである。

単純にキャラクターのHPが増加するのではなく、キャラクターに新能力を身につけ指せるという解決策は見事としか言いようがない。無限に強くなる仕組みではないのでゲームバランスを壊さず、あくまで戦略の部分はプレーヤーに委ねている。相手キャラクターの解決策を試行錯誤しながらクリアしていくのである。その試行錯誤に面白みがあるのである。一方で難易度調整が難しくなる。Eカンの登場や2コンを使った裏技という解決策が正しかったのかは分からないがギリギリのラインでクリアしていると個人的には感じている。

ただし、現代であれば攻略サイトがすぐ作られてしまう。考えながら答えをトライアンドエラーで探す事ができない。こうした時代においてプレーヤーにどのように余白を提供するかは未だに大きな課題であるといえる。時間効率や最強を求める因果からどうやって現代ゲームは逃れる事ができるのだろうか。僕個人としてはゲームのゴールは人生のゴールと同じく、正しい正解が無いということを再認識する必要があるのではないかと思う。

少し話がそれたが、ロックマン2は1980年代のおわりに登場した革命的ゲームのひとつであることは間違いない。そしてそれは常にプレーヤーの余白を考えていた。ロックマン2からボスキャラクターの一般募集が行われたのも偶然ではない。(リアルタイムの人たちはこぞって応募した記憶がよみがえるかも知れない) プレーヤーの余白を最大限に活かすゲーム設計をアクションゲームで行うのは至難の業だ。ロックマンは爽快感や自己満足を無限に与えるだけがゲームデザインではないということを痛感させてくれるゲームだった。

2010年7月12日月曜日

龍虎の拳について語ろう

龍虎の拳について語ろう。龍虎の拳は1992年にSNKが発表した格闘ゲームである。ストリートファイター2の発表が1991年であるから、いわゆるスト2ブーム中に対抗策としてリリースされたゲームである。この龍虎の拳が、後にKOF(キングオブファイターズ)へのSNKらしいゲームの流れを作ったゲームだったと思う。その中心が龍虎乱舞と呼ばれる超必殺の存在である。

超必殺技とは体力ゲージが少ないなど「ある特定条件下」で出せる、とても攻撃力の高い必殺技である。 多くの場合、そのコマンドは複雑なものである。この龍虎の拳で出せる龍虎乱舞はガード不能であり、体力の7〜8割を奪う。はっきり言ってやりすぎだと思うが、スト2の回でも書いたようにSNKのゲームは対戦特化型ではないのだ。CPU戦という事も目的に置かれている。また龍虎の拳での新要素、必殺技を打つために必要な気力ゲージという要素を追加する事によって、超必殺発動条件のハードルを上げている。ストーリーを進めていクト登場するボーナスゲームでキャラクターを強化できる点も、CPU戦を強化する目的だろう。

そして、龍虎の拳ではキャンセルがないのも特徴だ。そのかわりに前述した気力ゲージを消費する必殺技があり、必殺技の威力は高めである。要は、連続技という要素ではなく、技の刺し合いであったり、必殺技の出し合いによってゲームを楽しむのである。このことはキャラクターの距離よって、グラフィックが大きくなったり、小さくなったりする仕様が、本作に盛り込まれていることからも推察できる。

また、その為にCPU戦では攻略方法などがある。相手の気力ゲージをゼロにしてから、特定の技を待つとかである。この必勝法の存在が良くも悪くもSNKのゲームを特徴つけている。麻雀とドンジャラはどちらが優れているのだろう。もっと言えばジャンケンと麻雀はどちらが勝負として優れているのだろうか。どっちが皆に好かれてるのだろうか。僕の答えは麻雀が好きだ、ジャンケンは弱い、ドンジャラは子どもっぽいだ。異論は認める。きっとそうゆうことなんだと思う。僕らはそれぞれの楽しみ方でゲームを楽しめばいいのだろう。

2010年7月8日木曜日

スーパーマリオブラザーズについて語ろう

スーパーマリオブラザーズについて語ろう。スーパーマリオというばご存知、任天堂から発売されたアクションゲームだ。発売は1985年。任天堂の宮本茂氏の最高傑作の一つである。このゲーム敵を踏んづけて倒すという単純ゲームだが、数多くの微調整がなされている。

まずアイテム。きのこを食べて強くなるというのも、些かサイケデリックな気もしないでもないがきのこがニョキニョキ生えてくる様子は、アイテムが出現した喜びを増強させる。ちなみに僕はずっとクリボーもきのこだと思っていたが、クリボーは栗らしい。次にスターやファイヤーフラワーなどの強化アイテム。これらの強化は単純に強くなるのではなく、ゲームをサポートする為に作られた。これがもしも、RPGのようにどんどん強くなる性質のものだったらプレーヤーは自身のスキルの挑戦をしなかったのではないか。後述しようと思うが、自身のスキルへの挑戦ということが、このゲームの肝だと思う。いずれにせよ各種登場するアイテムはゲームの難易度を絶妙にコントロールしているし、その気になればアイテムを使用しないでもクリアできるように設定されている。

次に無限アップである。本来はバグであるが、段差等でノコノコを踏み続けることで無限に機数を増やすことができる。バグであるからして、仕様という言葉は避けたいところではあるが、この無限アップがあったおかげで僕はスーパーマリオをクリアすることができた。コンティニュー機能がない本作では、無限アップをしてから各ステージの難関に挑戦することができた。そしてあくまで、増えるのが機数だというところが大きい。いくら機数が増えてもステージクリアに必要な自身のスキルは変わらないのだ。

あくまで自身のスキルに挑戦するゲームとしてあり続けるスーパーマリオブラザーズは多くの人間を虜にした。僕が小学生の時、一人で祖父が練習していたの覚えている。そもそも祖父は孫の喜ぶ顔がみたくてプレイしてということを後々になって知るわけだが。いずれにせよ、幅広い年齢層に遊んでもらえるゲームを任天堂は生み出した。そしてその遺伝子は(宮本遺伝子と言ってもいいだろう)受け継げれている。任天堂は20年経った今でも、皆に遊んでもらえるゲームを作ろうとしている。ゲームを通じたコミュニケーションをデザインするその思想は今でも変わらない。

スーパーマリオブラザーズについては、例えばマリオのヒゲは右左が判断しやすいようにつけられたとか、画像データ数を減らすために雲と草の画像を使いまわしているだとか、ジャンプボタンを押し続けるとジャンプが伸びるように設定されているとか、細かい設定や調整は挙げればキリがない。それほどまでに作りこまれたゲームなのだが、それをすべてあげるのは無粋だろう。それらは、ゲームを通じたコミュニケーションを形成する一部なのだから。

2010年7月5日月曜日

ストリートファイターIIについて語ろうか

ストリートファイターIIについて語ろう。ストリートファイターII、通称スト2は1991年にカプコンから発売された格闘ゲームだ。(餓狼伝説と同じ)このゲームは基板として80万枚以上も売れる爆発的ヒットとなった。

事実上の格闘ゲームブームを巻き起こしたのはこのゲームであろうし、映画やサントラなどメディアミックスも行われた。後には多くの続編も出される事になるがあくまでスト2の枠を維持しながらも、新しい要素が追加されていった。

SNKとカプコンは格闘ゲームの世界で二大巨頭だった。(バーチャファイターが生まれ、鉄拳が生まれるのだが)僕はどちらかが良くて、どちらかがダメだと一方的な判断はしないが精密なゲームバランスを考慮して作られたのはスト2だった。これは言うならばキャラクターへの愛情表現の違いだったと思う。どんなキャラクターでも、そこそこ戦えるレベルまでゲームバランスが調整されていた。故にユーザーが気に入ったキャラクターを使い続けることができる。そういった意味でキャラクターは愛されていた。

余談になるが、スト2は日本からリュウとエドモンド本田の二人が選ばれている。一部の聞き伝えであり、裏は取れていないがこうした噂がある。インド代表のダルシムやブラジル代表のブランカは特異なキャラであるが、露骨に各国の特徴を誇張をしたナリをしている。それに対して、日本代表がリュウのみであったら、カッコ良すぎるではないか。なぜ日本を誇張したキャラクターが居ないのだ。そこでエドモンド本田が登場したという話である。

さておき、スト2はゲームとしての完成度が高く、今でもそのシステムが受け継がれているキャンセル技のシステムだ。特定の通常攻撃のあとに必殺技を入力することで、通常攻撃の硬直時間を省いて必殺技を出すことができるシステムだが、これが革新的だった。格闘ゲームの攻防の中で主軸となる技と、牽制する技とが生まれるきっかけになり、またやり込み要素とゲームとしての爽快感が生まれた。これらのゲームシステムが多くの人を虜にした要因だろう。極論を言えば格闘ゲームは、同じことの繰り返しを強いられるゲームである。なぜ人は同じことを繰り返すことができるのだろう。そこには向上というキーワードがある。

RPGであればキャラクターのレベルであったりだ。そして一方でプレーヤーの操作レベルの向上もある。スーパーマリオブラザーズなどは後者にあたる。しかしながら格闘ゲームは後者の要素を他のプレーヤーとダイレクトに比較できる。そこにハイスコアなどの要素を介する必要も無いのだ。より直接的な競争心が刺激されてプレーヤーはゲームにのめり込んでいく。ストリートファイターはまさにアーケードでの戦いのプラットフォームだったのだ。僕はその道筋を作ったこのゲームに永遠の敬意を持ち続けるだろう。

2010年7月1日木曜日

信長の野望・武将風雲について語ろう

信長の野望・武将風雲について語ろう。信長の野望・武将風雲録は1990年にPC-98用にリリースされる。その後スーファミに移植される。今では三國無双などイメージが強いが、コーエー(光栄)元々はパソコンソフトメーカーだった。当時のコーエーのゲームはところどころに、そうした点が現れている。なおBGMの作曲、編曲は菅野よう子が担当していた。

現在のハードの発達から考えればチャチなもの見えるかも知れないが、当時ではリアリティ路線のグラフィックや音楽が重厚な雰囲気を醸し出していた。シュミレーションゲームは一歩間違えば作業ゲーム、さらに悪化すればエクセルファイルをいじるような仕事になってしまう。それをさせないためには、難易度の設定や戦略性のデザインはもちろん重要だが、ゲーム全体として雰囲気もしくはキャラクターも、かなりの武器になる。

信長というキャラクターが歴史上に一人物だけでなく、ある種のイコンとして高められた要因の一翼をになったのかも知れない。すくなくとも無味乾燥な教科書よりはゲームが僕に与えた影響は大きい。キャラクターの強さの反面、ゲーム業界としても異例なほど移植タイトルや続編タイトルなど、いわゆるコンテンツを使いまわしたゲームが多いことも事実だ。こういったことを考えると、一概に答えは出ないとはいえ、各企業がゲームは「遊び」なのか、「ソフトウェア」なのか、「アート」なのかといったことをどう捉えているかのヒントにはなる。

武将風雲録の話しに戻ると、本作では武将のパラメータは隠しも含めて「政治」「戦闘」「教養」「魅力」「野望」「義理」「相性」「寿命」の8つである。本作から文化的側面が強化されたことにより、武将特徴や適材適所がより発揮されるようになった。戦闘が強い人間が一番良いのだが、政治や教養の高い人間も活躍する場所があるということだ。この8つのパラメーターは現実に則している訳でもなければ、その必要も無いのだが、人物の評価は一次元的なものではないということは現実的だ。縛りプレイを含めて癖のある人物を上手く使いこなしながら天下統一を図るというのがこのゲームの醍醐味なのではないだろうか。



またゲームで遊んでいたときには分からなかったが、現代社会で生きるということは一人ひとりが一人ひとりの盟主だ。そうして見てみると、意外にも信長の野望的なイメージで世の中を捉えている人が多いことに気づく。あいつのここがダメだ、あいつのここは面白いとか。そして無意識のうちに人間を分類する。人生はゲームのように単純ではないが、ゲームのほうが一貫して人生を見ている部分もある。