信長の野望・武将風雲について語ろう。信長の野望・武将風雲録は1990年にPC-98用にリリースされる。その後スーファミに移植される。今では三國無双などイメージが強いが、コーエー(光栄)元々はパソコンソフトメーカーだった。当時のコーエーのゲームはところどころに、そうした点が現れている。なおBGMの作曲、編曲は菅野よう子が担当していた。
現在のハードの発達から考えればチャチなもの見えるかも知れないが、当時ではリアリティ路線のグラフィックや音楽が重厚な雰囲気を醸し出していた。シュミレーションゲームは一歩間違えば作業ゲーム、さらに悪化すればエクセルファイルをいじるような仕事になってしまう。それをさせないためには、難易度の設定や戦略性のデザインはもちろん重要だが、ゲーム全体として雰囲気もしくはキャラクターも、かなりの武器になる。
信長というキャラクターが歴史上に一人物だけでなく、ある種のイコンとして高められた要因の一翼をになったのかも知れない。すくなくとも無味乾燥な教科書よりはゲームが僕に与えた影響は大きい。キャラクターの強さの反面、ゲーム業界としても異例なほど移植タイトルや続編タイトルなど、いわゆるコンテンツを使いまわしたゲームが多いことも事実だ。こういったことを考えると、一概に答えは出ないとはいえ、各企業がゲームは「遊び」なのか、「ソフトウェア」なのか、「アート」なのかといったことをどう捉えているかのヒントにはなる。
武将風雲録の話しに戻ると、本作では武将のパラメータは隠しも含めて「政治」「戦闘」「教養」「魅力」「野望」「義理」「相性」「寿命」の8つである。本作から文化的側面が強化されたことにより、武将特徴や適材適所がより発揮されるようになった。戦闘が強い人間が一番良いのだが、政治や教養の高い人間も活躍する場所があるということだ。この8つのパラメーターは現実に則している訳でもなければ、その必要も無いのだが、人物の評価は一次元的なものではないということは現実的だ。縛りプレイを含めて癖のある人物を上手く使いこなしながら天下統一を図るというのがこのゲームの醍醐味なのではないだろうか。
またゲームで遊んでいたときには分からなかったが、現代社会で生きるということは一人ひとりが一人ひとりの盟主だ。そうして見てみると、意外にも信長の野望的なイメージで世の中を捉えている人が多いことに気づく。あいつのここがダメだ、あいつのここは面白いとか。そして無意識のうちに人間を分類する。人生はゲームのように単純ではないが、ゲームのほうが一貫して人生を見ている部分もある。
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