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2010年7月5日月曜日

ストリートファイターIIについて語ろうか

ストリートファイターIIについて語ろう。ストリートファイターII、通称スト2は1991年にカプコンから発売された格闘ゲームだ。(餓狼伝説と同じ)このゲームは基板として80万枚以上も売れる爆発的ヒットとなった。

事実上の格闘ゲームブームを巻き起こしたのはこのゲームであろうし、映画やサントラなどメディアミックスも行われた。後には多くの続編も出される事になるがあくまでスト2の枠を維持しながらも、新しい要素が追加されていった。

SNKとカプコンは格闘ゲームの世界で二大巨頭だった。(バーチャファイターが生まれ、鉄拳が生まれるのだが)僕はどちらかが良くて、どちらかがダメだと一方的な判断はしないが精密なゲームバランスを考慮して作られたのはスト2だった。これは言うならばキャラクターへの愛情表現の違いだったと思う。どんなキャラクターでも、そこそこ戦えるレベルまでゲームバランスが調整されていた。故にユーザーが気に入ったキャラクターを使い続けることができる。そういった意味でキャラクターは愛されていた。

余談になるが、スト2は日本からリュウとエドモンド本田の二人が選ばれている。一部の聞き伝えであり、裏は取れていないがこうした噂がある。インド代表のダルシムやブラジル代表のブランカは特異なキャラであるが、露骨に各国の特徴を誇張をしたナリをしている。それに対して、日本代表がリュウのみであったら、カッコ良すぎるではないか。なぜ日本を誇張したキャラクターが居ないのだ。そこでエドモンド本田が登場したという話である。

さておき、スト2はゲームとしての完成度が高く、今でもそのシステムが受け継がれているキャンセル技のシステムだ。特定の通常攻撃のあとに必殺技を入力することで、通常攻撃の硬直時間を省いて必殺技を出すことができるシステムだが、これが革新的だった。格闘ゲームの攻防の中で主軸となる技と、牽制する技とが生まれるきっかけになり、またやり込み要素とゲームとしての爽快感が生まれた。これらのゲームシステムが多くの人を虜にした要因だろう。極論を言えば格闘ゲームは、同じことの繰り返しを強いられるゲームである。なぜ人は同じことを繰り返すことができるのだろう。そこには向上というキーワードがある。

RPGであればキャラクターのレベルであったりだ。そして一方でプレーヤーの操作レベルの向上もある。スーパーマリオブラザーズなどは後者にあたる。しかしながら格闘ゲームは後者の要素を他のプレーヤーとダイレクトに比較できる。そこにハイスコアなどの要素を介する必要も無いのだ。より直接的な競争心が刺激されてプレーヤーはゲームにのめり込んでいく。ストリートファイターはまさにアーケードでの戦いのプラットフォームだったのだ。僕はその道筋を作ったこのゲームに永遠の敬意を持ち続けるだろう。

2010年7月1日木曜日

信長の野望・武将風雲について語ろう

信長の野望・武将風雲について語ろう。信長の野望・武将風雲録は1990年にPC-98用にリリースされる。その後スーファミに移植される。今では三國無双などイメージが強いが、コーエー(光栄)元々はパソコンソフトメーカーだった。当時のコーエーのゲームはところどころに、そうした点が現れている。なおBGMの作曲、編曲は菅野よう子が担当していた。

現在のハードの発達から考えればチャチなもの見えるかも知れないが、当時ではリアリティ路線のグラフィックや音楽が重厚な雰囲気を醸し出していた。シュミレーションゲームは一歩間違えば作業ゲーム、さらに悪化すればエクセルファイルをいじるような仕事になってしまう。それをさせないためには、難易度の設定や戦略性のデザインはもちろん重要だが、ゲーム全体として雰囲気もしくはキャラクターも、かなりの武器になる。

信長というキャラクターが歴史上に一人物だけでなく、ある種のイコンとして高められた要因の一翼をになったのかも知れない。すくなくとも無味乾燥な教科書よりはゲームが僕に与えた影響は大きい。キャラクターの強さの反面、ゲーム業界としても異例なほど移植タイトルや続編タイトルなど、いわゆるコンテンツを使いまわしたゲームが多いことも事実だ。こういったことを考えると、一概に答えは出ないとはいえ、各企業がゲームは「遊び」なのか、「ソフトウェア」なのか、「アート」なのかといったことをどう捉えているかのヒントにはなる。

武将風雲録の話しに戻ると、本作では武将のパラメータは隠しも含めて「政治」「戦闘」「教養」「魅力」「野望」「義理」「相性」「寿命」の8つである。本作から文化的側面が強化されたことにより、武将特徴や適材適所がより発揮されるようになった。戦闘が強い人間が一番良いのだが、政治や教養の高い人間も活躍する場所があるということだ。この8つのパラメーターは現実に則している訳でもなければ、その必要も無いのだが、人物の評価は一次元的なものではないということは現実的だ。縛りプレイを含めて癖のある人物を上手く使いこなしながら天下統一を図るというのがこのゲームの醍醐味なのではないだろうか。



またゲームで遊んでいたときには分からなかったが、現代社会で生きるということは一人ひとりが一人ひとりの盟主だ。そうして見てみると、意外にも信長の野望的なイメージで世の中を捉えている人が多いことに気づく。あいつのここがダメだ、あいつのここは面白いとか。そして無意識のうちに人間を分類する。人生はゲームのように単純ではないが、ゲームのほうが一貫して人生を見ている部分もある。

2010年6月28日月曜日

かまいたちの夜について語ろうか

かまいたちの夜について語ろうか。かまいたちの夜のは1994年にチュンソフトから発売されたサウンドノベルゲームだ。サウンドノベルシリーズとしては弟切草に継ぐ第二弾になる。現在ドラクエの開発といえばレベルファイブが有名だが、当時チュンソフトがプログラミングを担当してた。そしてその開発資金を元手に独自のゲームを開発するのが弟切草だった。

かまいたちの夜の脚本は我孫子武丸、監督は麻野一哉。総監督は中村光一ということだが、中村光一氏はチュンソフトの代表取締役社長である。小規模開発でも面白いゲームを生み出すことができた象徴的存在として、かまいたちの夜をふり返ざるを得ない気がする。ゲームシステムは複雑な方がいいか、画像は綺麗な方がいいか、そういったことはどちらか一方が良いというわけではなく、どうすればゲームの世界観に合致しているのかということの方が何十倍も重要であるということを痛感するゲームだった。なぜなら、かまいたちの夜はゲームシステム的にはシンプルなものであったがオリジナリティのあるものだった。また映像は派手な動きは無いが、表示される写真的画像の特異なアングルや青い影で表示されるキャラクターはゲーム全体の雰囲気を決定づけるものとなっていた。

僕らは何かを評価するときに数値化したがる。 そして数値が大きい方がいいと思われる。支払うお金は少ないほうがいいんだけれども。数字が数字を追う無限の戦いに少人数のクリエーターが戦いを挑むのは無謀だ。そしてそれを挑めば、人に知られる事なく消えて行くだけだ。だから彼らはゲーム業界にゲリラ戦を挑んだ。正々堂々と。それはかまいちたちの夜でストーリーを読み進めながらじっと犯人を探しているようだ。圧倒的少数で不確実な環境で正解を導き出す方法は、知恵をふりしぼり、地道に一歩ずつ問題を解決していくしか無い。そんなことを思った。


サウンドノベルシリーズというゲームは全く新しいゲームであったのだけれども、当時出ていたゲームブックと呼ばれる書籍をベースのアイディアとしていた。ゲームブックは普通の小説のように読み進めていくのではなく、選択によって特定のページに飛ばされながら読み進めていく小説である。これが生まれたきっかけはもちろんゲームだ。ゲームをベースとしたゲームブックを、ベースとしたサウンドノベル。僕はそのプラットフォームの垣根を自由に行き来した自由な発想が新しいゲームを作ったと思う。

ゲームと小説。ゲームと映画。ゲームと音楽。どちらが素晴らしいと言えるものではない。ましてや数値化なんてできやしないし、面白いゲームを作ること何ら関係がない。僕らは夢中になる世界が欲しいのだ。それが冒険だったり快楽であったり恐怖であったりするのはなんでもいい。なんでもいいから僕らは夢中になれる世界が欲しいのだ。

2010年6月15日火曜日

ファイナルファイトについて語ろうと思う。

ファイナルファイトについて語ろうと思う。ファイナルファイトは1989年にアーケードゲームとして登場した。スーファミに移植されるのは翌年のことだった。

ファイナルファイトはベルトスクロールアクションゲームとして登場するわけだが、そこにカプコンならではの要素が組み込まれた。それはストリートファイターで培われた格闘ゲームとしての要素だった。それがゲームに大きな深みを与えると事となった。コンボや投げなどのアクションを加えることによって、敵を殴り倒すと言う爽快感の次元を更に高めた。

またケンカの達人コーディー、忍者ガイ、強き市長マイク・ハガーという3人のキャラクターも特徴的だった。スーファミ移植版ではガイは削られてしまうわけだが。 またコーディに関してはストゼロ3にて衝撃的な再登場をするわけだが。いずれにせよ、この3人のキャラクターはよくよく考えると、敵キャラに負けず劣らずの暴れん坊だ。だがそんな事はどうでもいい、やるかられるかの状況ではやるしか無いのだ。アーケードでコインを入れた瞬間からそれは始まる。無理矢理に世界に引き込まれる。だから人はアーケードに見せられアーケードに出向く。

またこのゲームには重要な技、千本パンチという技がある。ちなみにハガーは使えない。千本パンチとは従来バグの要素であったが、面白いと言うことで使用が残された。具体的な方法とはパンチを一発相手に向けて打ち、相手がひるんでいるうちに後ろ向けてパンチを一発すかす、すかさずまた相手に向かってパンチを打つ。こうすることによって、初段の素早いパンチを連続で相手に打ち込むことができる。比較的難易度の高いこのゲームでワンコインクリアを果たすのにはなくてはならない技となった。そして圧倒的な攻撃力とキャラクターで魅力のあるハガーとコーディー、ガイのキャラ魅力バランスを保つこととなる。

特にアーケードで二人協力プレイをするときにふたりとも千本パンチが使えるし、バランスを取ってハガーを入れてもいいと言うバランスの取り方もできる。要は一人のキャラでやりこみプレイもできるし、いろんなキャラクターでの楽しみ方を味わうこともできる。ただシンプルな殴りゲーにも関わらず。

この絶妙なミックス具合が日本的なアメリカのイメージを作り上げ、その世界観に引き込まれる。その世界自体何なのかと問われれば、実際には日本のイメージなので空想の産物でしか無い。この奇妙なバランス感覚がゲーム全体を通して爽快感を与えていた。僕らはなぜゲームをするのだろうか。ファイナルファイトは異なる世界に引き込んでくれるゲームだった。

2010年6月11日金曜日

ファイナルファンタジーVIについて語ろうと思う

ファイナルファンタジーVIについて語ろうと思う。ドラゴンクエスト(DQ)について語ったのなら、ファイナルファンタジー(FF)について語らなければならないのは宿命だ。

スクエアとエニックスが合併したのは2003年の話だ。ファイナルファンタジーVIが発売された1994年の時は両タイトルはライバル関係にあり、まさか同じ会社になるとは思えなかった。ただ、今でもやはりFF(ファイファンとも言ったりもしたが)と言ったらスクエアのロゴが思い浮かぶし、ドラクエと言ったらエニックスのロゴが思い浮かぶ。

ファイナルファンタジーシリーズを語る上でなぜファイナルファンタジーVIを取り上げたと言うことについて簡単に書く。その理由としてはもちろんシリーズの中でも気に入っている作品であると言うこともあるが、ファイナルファンタジーVIを通して説明されるものは「機械」と「魔法」の関係である。「剣」と「魔法」の物語であるドラゴンクエストと好対照だからだ。そしてそのことがファイナルファンタジーシリーズを大きく決定づけていると思う。

ファイナルファンタジーシリーズを通じてのテーマは「死」と「破壊」であると僕は思っている。そういったものを踏まえて人は自由に生きられるのかと言う問いが全体として投げかけられている。そうしたところが作品全体を通じての繊細さにつながっているように思う。ファイナルファンタジーVIに登場する主人公キャラ14人がそれぞれの立場から、この大きな問題に立ち向かっていることがこのゲームの奥深さである。また主人公キャラだけでなく敵キャラクターのケフカも業深き男として存在している。

と、ここまでツラツラと書いてみたがどうも考えがまとまらない。ファイナルファンタージシリーズの中の個別の作品について語るようで、シリーズ全体を思い浮かべてしまう。その理由は先に上げた、シリーズを通じてのテーマがはっきりしているからだと思う。ただそれだけではなくファイナルファンタジーVIは「機械」と「魔法」の対立を描きながらも、両方が如何にして融合すべきかを模索する作品だからだと思う。そして、全体を貫くストーリーを追うのではなく、個別のストリーを全体テーマとしてまとめ上げると言うことを決定付けた作品だったのではないだろうか。

そして、この点がプレーヤーの精神的な部分で共振させるからこそ感動を生む。ファイナルファンタジーは泣けるRPGなのだ。バラバラになりながらも集まる14人の主人公を見て、僕はそう思った。